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『朝鮮詩集』

 1940年に金素雲の翻訳によって発表された
『朝鮮詩集』は、北原白秋などの「大家」たちに
よって絶賛された。

 金時鐘氏は、「名訳」という賛辞が、朝鮮語を知らぬ
日本人による一方的な評価であることに疑問を抱き、
朝鮮語の原詩にあたって、『再訳 朝鮮詩集』を著した。
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 両者を読み比べて感じるのは、金素雲版『朝鮮詩集』が、
「翻訳」というよりも、原詩をベースにした「日本語による創作」
に近いということだ。

 すなわち「名訳」という評価は、金素雲の「創作」を
意識的あるいは無意識的に無視し、朝鮮の詩を日本語の範疇だけで
解釈・観賞できると思い込んでいる、一種の「オリエンタリズム」
にもとづくものだといえよう。

 そもそも、原詩を知らんのに、「名訳」などと評価すること自体が、
おかしいし、ゴーマンなんよね。


 金時鐘氏の日本語と朝鮮語に対する思いを読むたびに、背筋が伸びる。
by kase551 | 2008-05-08 23:15 | | Trackback | Comments(22)
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Commented by Morris. at 2008-05-09 07:09 x
金時鐘さんとは、神戸と大阪で、2度お会いしたことがあります。
しかし、昨年と、今年、2回連続して、彼の講演会などがキャンセルになってしまいました。健康上の理由ということで心配しています。

今回の「再訳 朝鮮詩集」は先日本屋で見つけて、1時間ほど(^_^;)立ち読みしました。
機会があればゆっくり読んでみたい一冊です。

あとがきの中で、原詩の収集に彼をバックアップする研究者らのことが書かれてましたが、その中で、釜山の古本屋でコピーを手に入れたという「金素雲対訳詩集 上中下」3冊のうち、上中の2冊をMorris.は所持しています。かなり以前やはり釜山の古本屋で、二束三文で手に入れたものです。
「朝鮮詩集」所載の詩の大部分は上巻に収められてましたから、以前金時鐘さんにお会いしたときそのこと(再訳の企画)が分かっていれば、早くに提供できたかもしれないと思うと、ちょっと残念です。
Commented by Morris. at 2008-05-09 07:10 x
続き
それはともかく、Morris.はもちろん岩波文庫の「朝鮮詩集」は愛読してました。
だから、この対訳詩集で原詩と対照して一通り読みました。
管見ながら、やはり金素雲の「朝鮮詩集」は名訳と言えると思います。

いわゆる「直訳 正確な訳」ではなく「意訳 反訳」そして、当時の日本の詩風に合わせた文体もありますが、すべてとはいえないながら、原詩を超えるものもあるかと思います。
李陸史の「青葡萄」などは、やはり、Morris.には金時鐘訳では物足りません。
翻訳とは創作でもあるのでしょう。



そして、金時鐘さんには、「朝鮮詩集」の再訳にとどまることなく、彼の詩心で選択吟味した、現在過去の半島の詩人の作を翻訳してもらいたいと思います。
Commented by kase551 at 2008-05-09 23:05
Morris.さん、コメントありがとうございます。

李陸史作「青葡萄」の金素雲訳を「名訳」とお考えになり、
金時鐘氏の訳を「物足り」ないとおっしゃるところに、Morris.さんと
私の違いがあるようです。

 短歌に造詣が深く、ご自分でもお詠みになる「歌人Morris.さん」に
とって、金素雲訳はまさに「名訳」だろうと思います。

 しかし、短歌門外漢であり、整いすぎたリズム・整いすぎた表現・
整いすぎたマンガの絵柄が好きになれぬ私は、完璧な七五調の
「名調子」でまとめ上げられた金素雲訳「青葡萄」を、「なんか単調やなぁ・・」「おもろないなァ・・・」と感じてしまいます。

 もちろん、金素雲氏の抜群の力量には、ホンマに感嘆します。
 そして、「翻訳とは創作でもある」というMorris.さんのお言葉にも
賛同します。

 しかし、金素雲訳「青葡萄」が「名訳」だとは、私にはどうしても思えません。

Commented by kase551 at 2008-05-09 23:05
(つづいて)
 原詩の「チュジョリ チュジョリ ヨルリゴ」を、金素雲は「垂れ鎮み」と訳し、金時鐘氏は、「ふさふさと実り」と訳しています。

 また原詩の末尾における「アイヤ」と「ハイヤン」という韻を、金時鐘訳では、「あこよ」と「まっしろい」ということばによって、「a」の韻を生かしています。
 金素雲訳では、「小童」と「いや白き」です。

 そして、原詩の「葡萄を摘んで食べるなら(かせたに訳)」という部分を、
金素雲は「葡萄を摘まば」と、「食べる」部分を、意図的にカットしています。

 う~ん、これはちょっとなぁ・・・・ 

 私は、金素雲版『朝鮮詩集』を、ホンマにすばらしい詩集であるとは
思いますが、「名訳」とは思えません。


 佐藤春夫の、七五調にどっぷりつかった次のような「能天気」なコメントを読めば、なおさら・・・

 もろともにあはれと思へ山ざくら花より外に知る人もなきこれ等の歌ひ手の詩情のいぢらしさを心しづかに味はつて見ようではないか。
(金素雲訳編『朝鮮詩集』〔岩波文庫〕、226-227頁)  

Commented by Morris. at 2008-05-09 23:39 x
レス、ありがとうございます。
このコメント欄は、文字数制限が厳しいので、なるべく簡単に書くことにします。
それでも、きっと分割しなくてはならないでしょう。面倒です。

・Morris.とかせたにさんの違い。それはそのとおりでしょう。

・Morris.は現在歌を詠んでおりません。そして、一時的にしろMorris.が歌を詠んでいたから(定型詩に馴染んでいたから)、金素雲の訳を名訳と思うのだ。
というのは、違う、と思います。

・金素雲の訳した「青葡萄」が「完璧な七五調」というのは、明らかに間違っています。

・順序が飛びますが佐藤春夫のあとがきからの引用「七五調にどっぷりつかったような」という指摘も、引用文の頭の部分は百人一首にも入ってる歌の引用で、それ以後の文章は、普通の地の文だと思います。

Commented by Morris. at 2008-05-09 23:59 x
続きです

・、読者側の勝手な感想で「名訳」という表現を使うのはまちがっているのでしょうか?

・原文(原詩)と訳文(訳詩)を詳細に検討して、語彙や文法的な間違いがあれば「名訳」とはいえないという立場もあるでしょうが、そうでない立場もあるのではないでしょうか?
Commented by Morris. at 2008-05-10 00:00 x
続きです

・「そもそも、原詩を知らんのに、「名訳」などと評価すること自体が、
おかしいし、ゴーマンなんよね。」というおことばですが、いったい、訳詩を読む人の大部分が、原詩を読めないから、訳詩を読むのではないのでしょうか?
フランス語が堪能で、ボードレールがすらすら読めて理解できる人がわざわざ日本語訳の「悪の花」を読むでしょうか。(研究とか批評とかなら別ですが)
逆に日本語の訳詩を読んで感動し、原詩を読みたいということでその言語を学ぶということの方が多いのではないでしょうか?
そして、訳詩(ここでは日本語訳に限定しますが)を読んで、感動したら、その訳詩は、感動した読者にとって「名訳」と呼ぶのは間違っていないと思います。

金素雲の「朝鮮詩集」は「名作」といえるかもしれないが「名訳」とはいえないというご意見は、それはそれでかまわないと思いますが、これを「名訳」と評価する人はゴーマンであるとは限るまいと思います。
Commented by Morris. at 2008-05-10 00:07 x
いい加減嫌になってきました(文字制限で何度もはねられるので)

・韓国語/朝鮮語を知らない日本人が、金素雲の「朝鮮詩集」を読んで、その日本語の訳詩に感動してそれを「名訳」と呼ぶことはかまわないのではないかということです。
それを「名作」というならかまわないが、「名訳」と呼ぶ(評価する)のはゴーマンだという言い方こそ、ゴーマンに聞こえます。
「名訳」という言葉の捉え方の違いに収束するとは思いますが、原語を知らない読者が、日本語に訳された小説や詩で、日本語の作品として鑑賞して、感動したら、それを「名訳」と呼び、評価することは別にかまわないのではないですか?
Commented by kase551 at 2008-05-10 08:38
Morris.さん、「青葡萄」が「完璧な七五調」であるという私の考えが
「明らかに間違って」いるとのご指摘ですが、
「ふるさとの(五) 古き傳説(つたへ)は(七)垂れ鎮み(五)
つぶらみに(五)ゆめみ映らふ(七) 遠き空(五)」
(注:「つぶらみに」の部分は、漢字表記の変換の都合上、
引用者〈かせたに〉がひらがなにしております)は、
「完璧な七五調」ではないのでしょうか?

 ちなみに金時鐘訳ではこの一節は、
「そのお方を迎え青葡萄を共に摘んで味わえるのなら
 わたしの両手はびっしょり濡れてでもよいものを」
となっています。

 あたかも盆栽を作るかのように、金素雲が丹精を込めて
「七五調 青葡萄」を作成したことが、あきらかですね。
Commented by kase551 at 2008-05-10 08:38
これが「名訳」とは、やはり私には思えません。

 そして、原典を無視して「名訳」ともてはやすことは、
やはりゴーマンだと思います。

 「秋の日のヴィオロンの」「さよならだけが人生だ」など、
 外国の詩を日本語の「名調子」に置き換える人たちの才能・
 努力はすばらしいと思います。
  しかし、原詩の「葡萄を味わう」という部分をバッサリ切り捨てて、
 耳に響きの良い「七五調」にされた「青葡萄」は、私には「無残やなぁ」
 と思えてなりません。
 
  金素雲訳を「名訳」ともてはやした人たち、また、もてはやす人たち
 には、「ほほぅ、朝鮮にもこんな名調子の詩があるんだねぇ・・・」
 という意識があるように、私は感じます。

  佐藤春夫が、ことさらに日本の短歌を引用し、「歌ひ手の詩情のいぢらしさ」
 などと述べていることも、その表れではないでしょうか?
Commented by kase551 at 2008-05-10 08:40
そしてMorris.さん、「面倒」で、「いい加減嫌になって」こられたならば、
メールでご意見をいただけませんか?

 ご自分からもちかけられた「論議」なのに、そのような物言いを
されると、当方としては、不快です。
Commented by Morris. at 2008-05-10 10:45 x
かせたにさん
不快感を与えてしまったようですみません。

とりあえず「完璧七五調」にかんしてだけはここではっきりさせておきたいです。

訳詩を引用するとまた文字数オーバーになるので、(Morris.が面倒になったり、いいかげん嫌になった」のは、このコメント欄の制限文字数のためです。)青葡萄 素雲訳の音数だけを

七 五
七 五

五 七 五
五 七 五

五 七
五 七

五 七
五 七 七

五 七 七

五 七
四 二 五

五 七 五
五 五 七

とりあえず、七五調と五七調、さらに四 二 五といった破調部分もあり、これを「完璧な七五調」というのはおかしいと思います。
この詩の第一節のみは「七五調」といえますが、他は

もしかしてかせたにさんは、七五調と五七調その他を混同されているのでしょうか?
短歌や俳句旋頭歌都都逸等など、五音や七音を基本単位にするものすべてを「七五調」と解釈されているのなら、これまでの発言にも納得がいきます。その前に「完璧な七五調」という表現そのものに問題があるのかもしれません。
Commented by kase551 at 2008-05-10 21:10
 Morris.さん、ご指摘ありがとうございます。
 おっしゃるとおり、私は「七五調」と「五七調」を
ごっちゃにしておりました。
 また、破調部分があるため、「完璧」という表現にも、
たしかに問題があります。

 大変失礼いたしました。

 「『七五調』にされた『青葡萄』」ではなく、
 「七五調・五七調など、日本の定型詩のリズムに組み入れられた『青葡萄』」
と、訂正いたします。

 
  で、繰り返しになりますが、そのような日本の定型詩特有の「名調子」に合うように、原詩における「チュジョリ チュジョリ ヨルリゴ」が「垂れ鎮み」 と剪定され、「葡萄を摘んで食べるなら」の「食べるなら」がバッサリ切り捨てられることに、 私は「無残さ」を感じ、「おいおい、ちょっとそれはあんまりやろ?」という
 思いを抱くのです。
Commented by Morris. at 2008-05-11 10:15 x
最初のMorris.の書き込みの思惑から、違った方向にいってしまったようです。
すみません。

七五調と五七調の件ですが、Morris.は両者の違いは歴然たるものと思い込んでおりましたが、今や世間一般では、俳句、短歌もふくむ、五音七音を基本にするもの全てを一括してさすというのが、ふつうなのかもしれませんね。
「重箱読み」と「湯桶読み」の違いが分かる人が減ったのと同じようなものでしょう。

「名訳」かそうでないかは別として、いろんな翻訳の仕方があって、いろいろあるから面白いというのが、Morris.のスタンスでした。
Commented by Morris. at 2008-05-11 10:23 x
訳詩(翻訳されたものすべて)を読む側からすれば、訳された詩が、日本語として読むに耐えるかどうかが、一番大事なところだと思います。

それと「朝鮮詩集」に選ばれた詩人や作品にはMorris.好みでないものも多く含まれています。当たり前のことですが、人の好みはさまざまです。

で、最初に戻りますが、金時鐘さんが韓国/朝鮮の詩をわざわざ翻訳されるのなら、他人(金素雲)の選択ではなく、金時鐘さん本人によるアンソロジー訳詩集を期待したのでした。
Commented by kase551 at 2008-05-11 22:05
  Morris.さん、私も「いろんな翻訳の仕方があって」当然だと思います。 
  また、訳された詩が、「日本語として読むに耐え」ないものならば、
 翻訳など、はじめからしないほうがましだと思います。

  私は、金素雲訳を「名訳」を呼ぶ人がいても当然だと思います。
  人の価値観・感覚はさまざまですから。  
  「名訳」と思おうが、「珍訳」と思おうが、それは読み手の判断でしょう。
 
  しかし、原詩を想像することもなく、ばっさりと無残に剪定された 「名調子」の訳詩を「名訳」ともてはやすことは、やはり私は「おかしい」 ことだと、そして「ゴーマン」なことだと思うのです。
 
 でも、「『名訳』などともてはやすな!」「原詩に当たれ!」と、他人に命じようとしたり、 押し付けようとしているのでは、決してありません。
  
 ただ、「金素雲訳を『名訳』ともてはやすことは、おかしいしゴーマンやから、 俺はそんなことば(「名訳」)は絶対に使わない」と言っているだけです。
Commented by kase551 at 2008-05-11 22:11
また、金時鐘さんが、なぜ「他人(金素雲)の選択」した朝鮮の詩を「わざわざ翻訳」 されたのかについては、『季刊 在日文芸 民涛』という文芸誌の座談会(1990年)における、  金時鐘氏の次のような発言をご参照ください。 出席者は、金時鐘氏・金石範氏・金潤氏・竹田青嗣氏・李恢成氏です。
 
 金時鐘「(前略)金素雲氏は早くから練達な日本語を身につけた人として評価の高い人なんですね。『乳色の雲』は名訳と言われてきた。 こぞって朝鮮語を知らない日本の人たちが名訳だと言ってきたわけですね。
 そのまま同胞、全朝鮮人が誉めて、これは名訳として日本語になったものだと皆思ってきたわけだ。
 だがこれは非常に滑稽なんだよね。名訳だと評価するからには、原詩を原語で読むという起点が据えられて、これが名訳であるかどうかが言われるべきなのに、それがないまま何十年も、金素雲が朝鮮の詩を日本に紹介した最高の紹介者として、その栄誉を独り占めしてきたのですね。
これは言い直せば、日本人は、自分らが朝鮮語を知る必要は根っからないのだから、朝鮮人が日本語にして持ってきたら理解してあげるという姿勢が依然として変わっていないのですよ。
Commented by kase551 at 2008-05-11 22:12
金素雲のどの訳でもいいが、必要以上に雅文的、候文的、文語的に訳されているのね。そしてそれが全部といっていいほど、日本の近代叙情詩の叙情の中でうたわれている。彼の朝鮮文学詩選の扉には、 『北原白秋先生の墓前に捧ぐ』という献辞がついていますが、まさに北原白秋的な日本語をもって、 日本語のいちばんいい言葉だと思った彼、日本の白樺派的な叙情を身につけた彼が、それを日本の叙情に置き換えたものが朝鮮詩集なんですよね。これを名詩だと言ってきた。これをひっくり返せるのは、 実は在日朝鮮人文学者なり、わけても朝鮮の固有の原語の培いを持った、今は亡くなられた姜舜先生ですとか、潤氏、ひいては石範氏や私などがやるべきことなのに、私たちはやっていないのだよね。金素雲氏が死んでから、私なども読んでね、いやぁこれは駄目だぞと。創作というか、まったくの置き換えなんですよ。自分の白樺派的叙情に置き換えたものなんだよね」
Commented by kase551 at 2008-05-11 22:13
竹田「そういう情緒ではないんだと」

 金時鐘「日本人にはね、違和感が全然ないわけ。朝鮮にもこんな詩があったのか、私たちの持っている詩と全然変わりはないじゃないか、それよりもむしろ垢抜けているじゃないかという実感を持ったわけだ(後略)」
   〔『民涛』第10号(1990年)、292-293頁〕
Commented by Morris. at 2008-05-12 11:15 x
「民濤」の金時鐘さんの発言、実に興味深く読みました。
そうか、20年近く前から、金時鐘さんには朝鮮詩集を再訳しようという気持と理由がおありだったんですね。
それにしても、かせたにさん、これこそ、Morris.の最初の発言へのレスとしてまっさきに提示いただけたら良かったと思います。
そしたらこんな、ちぐはぐなやり取りにはならずに済んだのではと思います。

そして翻訳に関してはMorris.の「日本語として読むに耐えるか」という発言はたしかに甘かったようですね。
「日本語として読むに値するか」に訂正させていただきます。

最後に、ひとつだけ質問があります。

かせたにさんは金素雲の「朝鮮詩集」を、「ホンマにすばらしい詩集であるとは思います」と書いてられましたが、これは、本心ですか?
Commented by kase551 at 2008-05-12 21:35
Morris.さん、金時鐘氏の思いについては、
私は記事で、

〔1940年に金素雲の翻訳によって発表された
『朝鮮詩集』は、北原白秋などの「大家」たちに
よって絶賛された。
 金時鐘氏は、「名訳」という賛辞が、朝鮮語を知らぬ
日本人による一方的な評価であることに疑問を抱き、
朝鮮語の原詩にあたって、『再訳 朝鮮詩集』を著した〕
 
 と、紹介しております。

 また、『再訳 朝鮮詩集』の冒頭においても、金時鐘氏は
「私は早くから、本当に早くから『朝鮮詩集』の
日本語と原詩との兼ね合いを明かしたいと思ってきた」
と述べています。


 そして、ご質問の件ですが、
 金素雲版「朝鮮詩集」を、「ホンマにすばらしい詩集であるとは思」う
というのは本心です。
 名調子・格調高い言葉遣いには、心から感嘆します。

 これは、好き嫌いとは別です。

 詩とは関係ありませんが、私はイチローという野球選手を好きでは
ありませんが、ホンマにすばらしい選手だと思います。
Commented by Morris. at 2008-05-13 06:48 x
先の発言で最後にするつもりでしたが、とりあえずご挨拶レスれす(^_^;)

金時鐘さんの再訳詩集は、立ち読み(これ自体が失礼なのかも)ということで、理解がまるで行き届かなかったかと思います。

そして素雲訳「朝鮮詩集」へのちょっと意地悪な質問に対して、イチローへの思いで代弁された切り返しには感服しました。(良くわかったということです。)

これにてこの記事へのコメントは終わりにしたいと思います。
レスポンスは無し、ということでお願いします(^_^;)

お騒がせしました。


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