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尹東柱

 今日(2月16日)は、朝鮮の詩人・尹東柱(ユン ドンジュ)が、
私が生活するこの福岡で絶命した日だ。

 数年前に書いた、尹東柱に関する拙文を載せる。



 【尹東柱との再会】

「死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥ずべきところがないことを
木の葉の間にそよぐ風にも わたしは胸を痛めた・・・」

これは「民族詩人」として名高い尹東柱(ユン・ドンジュ)が遺した「序詩」の冒頭だ。

  尹東柱は1917年、当時「間島」と呼ばれた現在の中国・延辺で生まれた。
 吉林省延辺朝鮮族自治州の州都・延吉(ヨンギル)市から約20キロ離れた
龍井(リョンジョン)市に、彼の生家と墓が今も残る。   

 龍井の恩真中学から平壌・崇実中学に転入した尹東柱は、
京城(現ソウル)所在の延喜専門学校(現在の延世大学)に進学後、
日本に留学する。
 そして京都・同志社大学に在学中の1943年、
独立運動参加の疑いで逮捕され、福岡刑務所で獄死する。
 1945年2月、享年27歳だった。

 現在、延世大学のキャンパスには尹東柱の詩碑がある。
 そして同志社にも、さらに延辺の龍井にも・・・。
 私は同志社大学にある詩碑はまだ見たことがないが、韓国語学堂で学ぶようになってから、
延世大構内の詩碑を見る機会に幾度か恵まれた。
 
 印象深い思い出がひとつある。高麗大学で韓国語を学ぶ、
日本から来た学生たちを伴って、延世大キャンパスを歩いていた。
 霧雨が降る中、詩碑の前で学生たちは合掌し、目を閉じた。私も手を合わせ、黙祷した。
 誰かがつぶやいている。

 「死ぬ日まで空を仰ぎ・・・」
 
 その「序詩」が日本語に翻訳され、教科書に掲載されているということを、
私は延辺に来るまで全く知らなかった。
 延辺大学に赴任して半年ぐらい経ったある日、延吉市内の日本語学校に勤務する
若い日本人講師と雑談していたときのことだ。
 話題が龍井に関するものになり、私は「龍井には尹東柱という有名な詩人の生家と墓地があるから、
一度行ってみるつもりです」と言った。

 まだ二十歳を少し越えたばかりの彼女は、韓国・朝鮮に関して
さほど関心があるように見えなかった。
 こんな若い先生に尹東柱の話をしても、どうせわかるわけないのに、
余計なことを言ってしまったかな・・・・・。
 
 日本の若者と尹東柱に関しては以前、笑うに笑えない話を聞いたことがある。
 1990年代のはじめ、 延世大学・韓国語学堂に在籍していた日本人学生が、
このような発言をしたという。
  「ユン・ドンジュ? トンドンジュ(マッコルリよりも濃いめの濁酒)なら知ってるけど・・・」 
無知は罪になることもある。もしその学生が血気盛んな韓国人学生の前でそのような
「妄言」を吐けば、はり倒されていたかも知れない。そこまではいかなくとも、
当分は相手にされなくなることは確実だ。語学研修とは言え、
尹東柱の母校である延世大学で学んでいるからには、少なくとも「ドンドンジュ」はないだろう・・・。

 「トンドンジュ妄言事件」を思い出しながら私は、「ユン・ドンジュって誰ですか?」
という問いが返ってくることを予想した。
 ところが、その若い日本人講師は、予想もしなかった答えを返した。
 「あぁ、ユン・ドンジュ・・・。 私、学校でその人の詩を習いました。教科書に出てきましたよ」
 その言葉に私は驚き、望外の喜びを感じた。この若い先生が尹東柱を知っているとは・・・。
  
 よく考えてみれば、私が尹東柱という詩人を知ったのは、
大学卒業後、韓国に関する本を数冊読んでからだ。
 つまり学生時代には、尹東柱の「ユン」も知らなかったわけである。
 その意味では、私も「トンドンジュ妄言学生」と大差はない。

 しかし今や、多くの日本人生徒が学校で「序詩」を読み、
尹東柱という詩人について知る機会が設けられている。
 私や「妄言」学生が中学校・高校に通っていた時と比べると、
日韓関係は確実に成熟しつつあることを、その「教科書事件」は実感させてくれた。

 教科書と日韓関係といえば、「歴史問題」を連想しがちだ。
 もちろん歴史問題は避けては通れない問題であるが、
「序詩」を教科書で学ぶ日本人生徒たちの姿などが、
両国のマスコミでもっと報道されてもいいのではないかなどと、
つい思ってしまう。

 尹東柱の生家と墓、そして詩碑がある龍井は、
抗日運動の拠点としても有名な所だ。
 
 1919年3月、朝鮮半島に広がった3・1独立運動に続き、
延辺地域でも抗日運動が繰り広げられた。
 3・1運動の様子が伝えられた延吉と龍井では、
学生たちが講演会やビラなどを通して抗日運動の先頭に立った。
 そして3月13日、各種反日団体が連合し、龍井において大規模な抗日大会が開かれた。
 それを皮切りに、4月末まで各地で抗日デモが組織され、多くの人々が参加した。
 
 現在龍井では、毎年3月13日を「3・13闘争記念日」として、記念行事を行っている。
 1999年3月、私はその関連行事を見学するため、龍井を訪れた。
引率してくれたのは、延辺社会科学院歴史研究所の姜龍権(カン・リョングォン)先生だった。

朝鮮族の歴史学者である姜先生は、私が尹東柱に関心があることを知り、
彼の母校を案内してやろうともちかけてくれた。
 尹東柱が通った恩真中学校は、現在、他の5つの中学校と統合され、
「龍井中学校」となっている。同校の所在地は、かつて恩真中学校があった場所とは異なるが、
それでもそこはまぎれもなく、尹東柱の母校だ。

  初めて訪れた龍井は、物静かな雰囲気の都市だった。
  龍井中学は、市内中心部からやや北西に位置する。
  姜先生に従って校門をくぐった私を、尹東柱の詩碑が迎えた。

   また会えた・・・。
 
  考えてみると、私は尹東柱の足跡を逆にたどっているような気がする。
  延辺で生を受けた尹東柱は、ソウルを経て日本に渡り、 東京から京都に居を移し、
福岡でその短い生涯を終えた。

  私が生まれた大阪と育った奈良は、彼が留学生活を送った京都のすぐ隣に位置する。
  その後ソウルに渡った私が韓国語を学んだ延世大学は、ほかならぬ尹東柱の母校だ。
  そして私はソウルから延辺へと生活の場を移し、今ここに、彼が通っていた中学校まで
たどり着いた(さらに言えば、現在私は、尹東柱が夭折した福岡で生活している)。
 
 尹東柱の墓地を発見したのは、早稲田大学の大村益夫教授だ。
  大村教授は1985年から1年間、 延辺大学で日本語を教えながら朝鮮族文学を研究した。
  そして 多くの朝鮮族作家の作品を日本語に翻訳して紹介するだけでなく、尹東柱の墓地を発見するという業績を残した。
  解放後の延辺で長期滞在した最初の日本人学者としての大村教授の足跡は大きく、
また、『季刊三千里』に連載された「延辺生活記」は、当時の延辺の姿を生き生きと伝える貴重な資料だ。
 
 延辺での滞在期間中、私は尹東柱の生家にも墓地にも一度も足を運ばなかった。
  その気になれば、いつでも簡単に行くことができたが、あえて行かなかった。
  なぜなら、今の私には、彼の母校で詩碑を見ることだけで充分だと考えたためだ。
  彼の生家と墓地を見ることは、もう少し先延ばしにしたほうがよいのではないかという気持から、
私はそこに行かなかった。
  
  会いたい人に会う時、すぐに会っても、それはそれでうれしいものだ。
  しかし、わざと先送りにしてから会ったとき、その喜びは一層大きなものになるのではないだろうか。

  「死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥ずべきところがないことを・・・」

  人生の折り返しにさしかかり、そろそろ尹東柱に会いに行こうかと思うことがある。
  しかし、もう少し「恥ずべきところ」が目立たなくなってからのほうが良いのかも、と思い直したりもする。

  「一点の恥ずべきところないこと」までは、とうてい無理にしても・・・。 
by kase551 | 2010-02-16 23:17 | 韓国・朝鮮 | Trackback | Comments(0)


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